17日(月)、日本に本場のフランスパンを普及させ、日本で「フランスパンの神様」と呼ばれたフィリップ・ビゴ(本名:フィリップ・カミーユ・アルフォンス・ビゴ Phillippe Camille Alphonse Bigot)氏が、病気のため76歳で亡くなりました。9月17日はビゴ氏の76回目の誕生日でした。
日本に本場のフランスパンを広める
ビゴ氏は、1965年4月に、東京で開かれた見本市でパンを焼く職人として来日。見本市終了後に、兵庫県芦屋市のフランスパンを手掛けていた大手ベーカリー「ドンク(DONQ)」三ノ宮店に技術指導員として勤務します。その後、1966年8月に東京の青山店に移り、フランス人のパン職人がパンを焼いている姿が人気を呼んで、フランスパンブームが起こります。
当時の日本では、「フランスパン」と言えば「ガチガチに硬くて、塩味がきつく食べにくい」というイメージでしたが、ビゴ氏が焼く「薄い皮はパリッとしていて香ばしく、中はしっとりと柔らかい」フランスパンは、これまでのものとは大きく異なり、「硬くて食べにくい」フランスパンのイメージを払拭します。
後にNHKのインタビューの中でビゴ氏は、フランスパンがサクサクとして食べやすいことを見せ、「フランスパンが硬くて食べにくいものというイメージを払拭できた」と語っています。
指導者として尽力する
ビゴ氏は、日本のパン職人の育成にも尽力し、多くの弟子を輩出しています。主な弟子には、「パンテコ」代表取締役社長の松岡徹氏、「ビゴ東京」代表取締役の藤森二郎氏、コム・シノワ(Comme chinois)の西川功晃シェフなどがいます。
ビゴ氏は、人間の生活リズムに合わせてパン作りの工程を決めるのではなく、パン生地の仕上がりによって工程を決める方法をとり、安定剤などの添加物を加えることや発酵を早めるためにイースト菌を増やすなどを一切行わずに、本来のパン作りの方法を貫いていました。「規則正しい生活をしたいならば、パン職人には向かない」と述べています。
独立、「ビゴの店」を開店
その後、1972年に独立して、兵庫県芦屋市に「ビゴの店」を開店します。関西を中心に人気のパン屋として知られていきます。
生い立ち
ビゴ氏は、1942年9月17日、当時ナチスドイツの占領下にあったノルマンディー(Normandie)地方で、祖父の代から続くパン職人の家に3代目として生まれました。8歳の頃から父の元で仕事を手伝い始め、14歳の時には見習い職人として働き始めます。
17歳でパリに移り、見習いとして働きながら、国立製粉学校(INBP/Institut National de la Boulangerie Pâtisserie)の製パン科に入学、同時期に職業訓練センター(Centre de Formation Professionelle)に通い、パン職人と菓子職人の職業適性証(CAP/Certificat d’aptitude professionnelle)を取得します。
その後は正式なパン職人としてパリ郊外のクールブヴォワ(Courbevoie)で働き始めます。
19歳の時に徴兵され、兵役を終えた後は再びクールブヴォワやパリでパン職人として働き、その後22歳で来日、日本にフランスパンを広めます。
レジオン・ドヌール受賞
ビゴ氏は、フランスパンを日本で普及させた功績が称えられ、1982年には国家功労賞(L’ordre du merite national)のシュバリエ(Chevalier)、1987年には農事功労賞(L’ordre du merite agricole)のシュバリエ、1988年には同じく農事功労賞の更に上の階級であるオフィシエ(Officier)が授与されています。
また、2003年には、母国フランスで最高勲章の「レジオン・ドヌール勲章(L’ordre national de la légion d’honneur)」のシュバリエ(5段階中上から5番目)が授与されました。
日本でもその活躍が認められ、2017年には「現代の名工」に選ばれています。
フランス大使館も追悼の意
日本にフランスパンを普及させることに尽力した「フランスパンの神様」の訃報に、フランス大使館もツイッターで追悼の意を表しています。
【大使の言葉✒】追悼 フィリップ・ビゴ氏 日本におけるフランスパンの草分け pic.twitter.com/qLoHH8NZpt
— フランス大使館 (@ambafrancejp_jp) 2018年9月18日
私たちが日本で美味しいフランスパンを食べることができるのも、ビゴ氏の功績があってのことなのですね。
執筆:Daisuke