今年2021年はショパン・コンクール・イヤー。5年に1度の「ショパン国際ピアノコンクール」が開催される年です。
このコンクールは世界三大音楽コンクールの一つと言われ、アルゲリッチやブーニンなど世界的に有名なピアニストを何人も輩出。また中村紘子(4位)や内田光子(2位)をはじめ、日本人ピアニストの実力を世界に示す場ともなっています。
世界中から注目されるこのコンクールに名前を冠されているショパン。ポーランド出身ながらフランスと深い関わりのあるこの「ピアノの詩人」について、その生涯やパリにおけるゆかりの地などを2回にわけて探っていきましょう。
「ピアノの詩人」ショパンの生涯
フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin, 1810-1849)はポーランド出身の作曲家ですが、人生の大半をパリで過ごしました。ショパンが活躍した19世紀前半のパリは、まさに芸術の都。彼は同時代の芸術家たちと親交を深め、パリでその生涯を閉じました。
ポーランド生まれ
ショパンはフランス人の父とポーランド人の母のもと、ポーランドの首都ワルシャワに生まれました。両親とも音楽に親しみ、幼い頃からショパンの才能には期待が寄せられていました。
ワルシャワ音楽院を卒業後の1830年、ショパンはロシア発行の旅券を取得してウィーンにむかいます。その後祖国のワルシャワで、ロシア帝国による支配に対する革命が起きたことから、ウィーンではポーランド人への風当たりが強くなったため、翌年パリへ移ります。
この革命に影響を受けて作曲したと言われているのが、あの有名な練習曲Op.10-12「革命」です。
パリで活躍
ショパンはパリで貴族家庭でピアノを教えながら、サロンやコンサートでの演奏や、作曲を行いました。
当時交流を深めた同時代の音楽家には、ドイツ出身のメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn, 1809-1847)やシューマン(Robert Schumann, 1810-1856)、ハンガリー出身のリスト(Franz Liszt, 1811-1886)などがいます。
当時、人気を集めていたのが超絶技術をもった「ヴィルトゥオーゾ(Virtuoso)」と呼ばれる演奏家たちでした。例えばヴァイオリニストのパガニーニ(Niccolò Paganini,1782-1840 イタリア)や、リストなどです。しかしショパンはこれらの演奏家たちと交流しながらも、自己の作曲・演奏スタイルを固めていきました。
帰国かなわず
パリで活躍する一方、ショパンにとって故郷ポーランドの家族は忘れられない存在でした。家族と数週間、休暇を共にすることもありました。
しかし革命の失敗によりポーランドはロシアの支配下におかれ、ショパンはロシア発行の旅券を更新しようとはしませんでした。そのため、ロシア領となったポーランドに帰国することはかないませんでした。
パリで生涯を閉じる
1836年、ショパンは最後の恋人となる作家サンド(George Sand, 1804-1876)と出会います。しかしもともと病弱だった彼は交際を絶たれてしまいます。それでも創作を続け多くの名曲を作るのですが、病状は悪化し続けるばかりでした。
1848年、サンドとの別離を経たショパンは演奏会のためイギリス各地を回ります。しかし旅の疲れから、パリに戻るとわずか数ヶ月で息を引き取りました。
ヨーロッパ中から芸術家が集まった19世紀前半のパリ
ショパンはポーランド生まれですが、祖国の革命により人生の大半をパリで過ごしました。パリで当時活躍していたのが、ショパンをはじめとする外国人の芸術家だったことは興味深いです。
次回はパリで出会うことのできる、ショパンゆかりの地を巡ります。「(2)パリでショパンを訪ねよう」。
執筆 あお
参考:
一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)ピティナ・ピアノ曲事典[2021.06.20]
岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(2005)中央公論新社
平野啓一郎『ショパンを嗜む』(2013)音楽之友社