2月19日(火)、「シャネル(Chanel)」をはじめとするファッションブランドのデザイナー等を務めたカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)氏がパリで死去しました。
モード界の大御所であったラガーフェルド氏は、シャネルの2019年春コレクションのフィナーレに欠席するなど、体調不良が心配されていました。
若くから「モード界の皇帝」
ラガーフェルド氏は1930年代にドイツのハンブルグ(Hambourg)で生まれ、早くからその才能を開花させました。
小学生時代から、他の生徒とは混じらずに髪を伸ばし、授業中は手を止めることなく絵を描き続けたといいます。
1950年代末から「ジャン・パトゥ(Jean Patou)」のデザイナーを務め、1983年にはシャネルのデザイナーに抜擢されるなど、モード界でその才能を発揮しました。
ラガーフェルド氏とシャネル
1983年のデザイナー就任時はすでに「フェンディ(Fendi)」や「クロエ(Chloé)」のアートディレクターを務めていました。
当時のシャネルは経営危機に陥っていた中、ラガーフェルド氏は復活を誓って当時のトップモデルらをミューズに立て、ブランドを改革しました。
その後1984年からシャネルは売上が伸び、2017年には営業利益80億ユーロ(約1兆47億円/1ユーロ=125.59円換算)を達成するまでに成長しました。
モード、大衆ファッション、写真、演劇
ラガーフェルド氏は、高級服飾デザインの他にも様々な分野で活躍しました。
フランスのフランク・リステール文化大臣(Franck Riester, Ministre de la Culture)は19日、ラガーフェルド氏が「モード界の男であると同時に、文学を愛し、写真を愛し、あらゆる芸術を愛した男だった」と、その死を悼んでいます。
リステール氏はまた、ファッションの中でも高級ブランドにおけるフランスの愛着を体現する「偉大なアンバサダーであった」とラガーフェルド氏を評価しました。
ファッションの民主化に貢献
ラガーフェルド氏は、ファストファッションの「H&M」とコラボレーションするなど、ファッションの裾野を広げることにも貢献しました。
ほかにはサッカーのフランス代表ユニフォームのデザインも手がけました。
人間味がファンを惹き付けた
作家のパトリック・モリエス(Patrick Mauriès)氏はラガーフェルド氏について「距離の取り方と、皮肉の混ざり具合が、人を惹き付け、モードのファンを生んだ」と回顧します。
1970年代後半にモード界のトップとして活躍する中でも、ラガーフェルド氏は以前からのユーモア精神を失うことはなかったといいます。
ファッションデザイナーに年齢は不問・・・
ラガーフェルド氏の人間性を示すエピソードとして、「年齢詐称騒動」があります。ラガーフェルド氏は自身の年齢を隠しており、最近まで生誕年は「1930年から1940年の間」ということしか判明していませんでした。
自称では「1938年生まれ」として2008年9月10日には生誕70周年のお祝いを行いました。しかし実際は5歳サバを読んでいたことが、後にドイツの新聞に掲載された知人の証言で明らかになりました。
この騒動後もラガーフェルド氏は「母は1938年生まれを間違えて1933年生まれとしたんだ。3と8は似ている」「1933年生まれでもなく、1938年生まれでもない。1935年の半ばくらいだ」と発言するなど、本当の年齢は煙にまかれていたのです・・・。
年齢はともあれモード界の巨匠の死に、追悼の意を示したいと思います。
執筆あお