*クロード・モネ『Le Parlement de Londres(ロンドン議事堂)』
今日は Impressionnisme(アンプレッシォニスム)について。日本語で「印象主義」と訳される絵画運動は、今では押しも押されぬ美術の一部門として確立しています。
印象主義の歴史
この言葉が生まれたのは、今から141年前のこと。当時絵画というのは、今の芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts)の前身ともいえる王立絵画彫刻アカデミー(Academie royale de peinture et de sculpture)が牛耳っていました。例えば、どんなモティーフをどんな技法で描くべきかなど、すべて定められていたのです。美の極致とされたのは、古代彫刻。その写生が、絵画の勉強では、何よりも重視されていました。
批判される「新しい動き」
それでも19世紀には、絵の具の改良により、屋外で絵を描くことが可能になり、画家たちは嫌でも色と光を意識するようになりました。また、写真技術が発明されたことで、事物を見たままに写生するだけでなく、そこにプラスαを求める動きも出てきたのです。王立絵画彫刻アカデミーは、この新しい動きをあるまじきものと批判し、公式展覧会サロン・ド・パリには、出展許可を与えませんでした。
ところが、皇帝ナポレオン3世が「落選者にも展示の機会を与えてはどうか」と示唆したことから、1863年、サロン・ド・パリの落選者たちの展示会が開かれました。ここで展示されたのがかの有名なエドゥアール・マネの『le Déjeuner sur l’herbe(草上の昼食)』。神話を描いたものの中でしか裸体は扱わないという当時の取り決めを無視した作品で、この「現代の裸像」は、大きなスキャンダルとなりました。多くの人が嘲笑目的にこの落選者展を見に集まり、結果は案の定の酷評。
けれども皮肉なことに、入場者数は、同年の公式展覧会サロン・ド・パリの入場者数を上回ったといいます。
*モネの庭園
若手芸術家たちの集団
これをきっかけに生まれたのが、落選者であった芸術家たちの新たな集団。メンバーは、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ドゥガなど、今から見ればそうそうたるものですが、当時は若手の画家でした。彼らが協力し合い、写真家ナダールのアトリエで、自分たちの作品展を開いたのが1874年4月15日。この時出展されたモネの作品が『Impression, soleil levant(印象-日の出)』です。この作品の題名をもじって、記者ルイ・ルロワが皮肉を込めて書いた記事の中で使ったのが、Impressionniste(印象主義者)という新語です。
実際ルロワ記者は、モネの作品について「いったい何を描いているのか訳がわからない」「壁紙の方がもっとちゃんとした絵だ」という評価を下しています。しかしながら、この新語は若手芸術家の気に入り、それ以降も使われることに。その後の Impressionniste(印象主義者)たちの活躍については、後世の皆さんご存知の通りです。
あとがき
実は、上述のルイ・ルロワも絵を描き、サロン・ド・パリに出展したこともある人でした。彼は1885年に亡くなりましたが、現代における印象主義派の人気を目にしたら、なんと言ったことでしょうね。
執筆:ゆき